~Newsletter vol. 4 調査記事より~
松本 朋哉(小樽商科大学)
東アフリカを旅してみると分かるが、多くの人口稠密地帯は、湿潤なところ、そして標高の比較的高いところにある。湿潤で標高が高い地域は、おおむね爽やかな気候で、低緯度地域にも関わらず、とても過ごしやすい。雨季にはまとまった雨が降り、地域の食料生産のポテンシャルが高い。また、高度が高いために比較的冷涼で風土病を媒介する生物も少なく疾病リスクが低い。ナイロビ、キガリ、アディスアベバなどの高原に人口が多いのも尤もだと、腑に落ちる。とは言え、居住のための好条件が揃ったところは、地域が限られていて競争が激しい。全ての人がそうした地域に住めるわけではない。そこで、次に人々が多く住むのは、湿潤な低地である。生命の営みに必要な水はあるが、同時にマラリアを媒介する蚊の生息域でもある。そうした地域では、水アクセスと疾病リスクの環境トレードオフを甘んじて受け入れつつ、多くの人々がマラリアの高度感染地域に定住している。そんな地域の一つが、ケニアのホマベイ郡、我々のマラリア調査の現場だ。ここでは、当地で私が関わるマラリア調査の途中経過を簡単に紹介したい。
当該研究は、「マラリアのない社会の持続を目指したコミュニティ主導型統合的戦略のための分野融合研究プロジェクト」(研究代表大阪公立大学の金子明教授)の関連事業として展開しているもので、マラリア撲滅に向けて、高度感染地域住民が積極的に感染対策を行うよう促す政策ツールを開発することを目指している。我々が住民向けの介入策を検討する理由は、住民自身のマラリア撲滅へのコミットメントなしには、対策を考案し提供する側の努力だけでは、マラリア対策の「ラストワンマイル」は埋まらないという考えからだ。
過去約20年間、国連・ミレニアム開発目標(MDGs)やグローバルファンドの設立等により、世界的なマラリア対策への資金が増大し、長期持続性殺虫ネット(LLIN)の開発・配布、室内殺虫剤噴霧(IRS)の実施、地域医療機関での迅速診断テスト(RDT)やアルテミシニン併用療法(ACT)の採用などにより、健康医療サービスの供給サイドに大きな改善が見られた。事実、世界のマラリア患者数と死亡者数は大幅に減少し、2015年の国連の持続的開発目標(SDGs)においては2030年までのマラリア撲滅がひとつの目標として掲げられるまでになった。ただし東南アジア諸国でのマラリア流行縮小は著しい一方、熱帯アフリカでは依然として高度マラリア流行が続く。そして、2015年頃からの対策資金の頭打ちと共に、世界的な死亡者数、患者数は横ばいとなっている。
我々の研究では、マラリア高度感染地帯であるケニア西部のビクトリア湖周辺のホマベイ郡スバ南地区の住民を対象としているが、当地においても感染率は依然として高止まりしている。我々の実施した直近(2022年12月から23年2月)の調査(7060人を対象)における迅速マラリア診断検査結果によると、陽性率が16.7%、15歳未満の子供に限ると更に高く24.4%であった(より診断精度の高いPCR検査だと、この数値よりずっと高い感染結果が出ることが予想される)。また、感染率の最も高い地域では、実に102人中69名(68%)が陽性であった。国内公的機関・国際援助機関によるマラリア対策がコロナパンデミック以前に戻りつつあるにもかかわらず、感染率が非常に高い状態にある。一つの大きな原因は、住民のマラリア予防や早期治療に対するモチベーションの低さにある。例えば、対象地では住民がマラリア対策のために無料配布された蚊帳を目的外使用する現場が散見されている。殺虫剤が練り込まれた繊維で編まれた蚊帳は、マラリア予防効果が高いことが知られている。マラリアは時に「貧困の病」と言われることもある。確かに貧しい家庭では、マラリア対策が疎かになることが十分考えられる。しかし、無料配布の蚊帳をマラリア対策に使用しないのには、貧困以外にも問題があるに違いない。
住民がマラリア予防・治療の方法を必ずしも有効利用していない背景として、まず、マラリア伝播の仕組み・予防法に対する住民の理解不足が考えられる。一般に、感染症の発症および伝播の仕組みに対する理解が不足している場合、人々はその予防および治療法により得られる利益を過少評価する傾向がある。当地の住民にとってのマラリアも、そうした傾向がある可能性がある。マラリア発症・伝播の仕組みを正しく住民に教育すること、そして感染者自身にマラリア感染状況を伝えることは、その予防・治療に向けた適切な行動を促す強い動機付けとなりうる。
マラリア対策を熱心に行わない人々がいる他の要因として、マラリア予防・治療に関する個人の行動の正の外部性(positive externality)に起因するフリーライド問題も考えられる。マラリアのような感染症では、個人の予防や治療のための行動が、その隣人の感染リスクも下げる。しかし、各個人は、こうした感染予防の波及効果を考慮せず、自身の感染症に対する対策を決める。この場合、個人の感染予防に対する自発的努力は社会的な最適レベルより低くなる傾向がある。これに対する経済学的対処法の一つは、観察される努力レベルに応じた褒賞もしくは、罰則を与えることにより個人の努力レベルを引き上げるようなインセンティブ制度を導入することである。
こうした考察を踏まえ、本研究では、地域住民のマラリア対策を促す政策ツールをデザインし、実験的に効果を検証している。政策ツールには二つの柱がある。
第1の柱は、調査チームが独自に開発したマラリア教育コンテンツを持つ、アニメーションを用いたタブレット端末ベースのマラリア教材による知識介入である。住民が必要な情報を適切に伝えることで、彼らのマラリア感染予防・早期治療希求の価値新式を高め、行動変容につなげることを意図している。教育コンテンツには、医学研究者の指導の元、マラリア対策に必要な医学知識として、病気特性、伝播メカニズム、予防方法などに加え、近年専門家間で対策の阻害要因とされ注目されている無症候性・顕微鏡検出限界以下の低原虫濃度感染と無症候感染者からの伝播のリスクの解説を加えた。同地域で無症候性・顕微鏡検出限界以下の低原虫濃度感染が高い確率で存在していることは、研究レベルで明らかになってきている。しかし、発症しないにも関わらず、家族や周辺住民へマラリア感染させてしまうことがあるという事実は、地域住民には知られていない情報であり、彼らの対策へのモチベーションにも影響すると予想される。更に、マラリア疾病による経済的な損失、予防、早期治療の便益についての解説を入れ込んだ。マラリア疾病に係る治療に必要な直接・間接費用、仕事を休むことで失う逸失所得、学校を休むことで発生する子供の学力の低下、将来機会の喪失の可能性等を事前調査や先行文献を元に紹介する内容である。ある行動を選択する経済的なリターン(選択しない場合のコスト)の情報を適切な時期に適当な対象者に伝えることで、行動変容が促されることは多くの研究で実証的に明らかにされている。しかし、一般の健康医療分野の教育コンテンツでは、あまり重視されてこなかった。こうした医学、経済学の知見を活かしたコンテンツは、マラリア教材として新しい。また、そうした内容をタブレット端末のアニメーション映像を通じて、分かり易い現地語(ルオ語)で、伝えることで高い効果が期待される。更に、途上国では啓発活動を担う人材の不足、トレーニングのコストが問題になることが多いが、教育コンテンツをタブレットやスマートフォンの映像として届けることで、そうした問題を解消し、より広範囲にアウトリーチできる効果的な手法になり得る。
第2の柱は、対象家計の構成員のマラリア感染に対する迅速診断検査の陰性結果と関連付けられたマラリア予防行動のための金銭的インセンティブ制度である。これは、インセンティブを与えることで、行動変容を促そうとする試みである。本プロジェクトでは、インセンティブ制度として2つの異なる形態のスキームを用意した。一つは、フォローアップ調査の際、非感染であれば、少額の褒賞を与えるスキーム(CCT: Conditional Cash Transfer)、もう一つは非感染であれば、低い確率ではあるが大きな褒賞が与えられるというくじを与えるスキーム(LIS: Lottery Incentive Scheme)である。CCTは教育援助や医療援助の文脈で、対象者の行動変容を促すために多く利用されているインセンティブスキームである。一方、LISの応用例はまだ少なく、比較的新しいスキームで、これは、行動科学の知見を利用したCCTの変種である。具体的には「一般に、人々は発生確率が小さい事象の発生確率を過大に評価しがちである」という行動科学の主観確率に関する知見を利用している。多くの人々にそうした傾向があるならば、「条件を満たせば少額の褒賞金が確実にもらえる制度」よりも「多額の褒賞金が当たるかもしれないクジがもらえる制度」の方が人々の行動に大きな影響を与える可能性がある。LISの行動変容への効果検証を行う先行研究は非常に少なく、数少ない応用例として、Nyqvist et al. (AEJ Applied 2018)がある。そうした点も、本研究の独自性と言える。また、LISがインセンティブスキームとして機能するなら、CCTにない実務上の利点もある。それは、支払い条件を満たす候補者の中から、確率的に褒賞金が支払われるので、支払いの対象者が少ないため、支払いのオペレーションコストを削減できるという点である。
プロジェクトでは、こうしたコンテンツの組み合わせを、地域住民に対しランダム化比較試験の枠組みで導入することで、その効果の計測を行なっている。最終評価は、主要評価項目であるPCR検査及び顕微鏡検査によるマラリア感染診断結果が出揃うのを待つ必要があるが、これまでに、以下の事柄を確認した。1)独自マラリア教材により住民のマラリア知識が高まること、その効果が6ヶ月後に行われたフォローアップ調査の際にも維持されていること。2)マラリア知識の向上により、適切な蚊帳使用が促進されること。ただし迅速診断テストで診断される感染率に対しては、統計的に有意な効果は検出されなかった。3)インセンティブ制度の効果はいずれも限定的で、迅速診断テストで診断される感染率への影響は確認されなかった。本結果を踏まえ、今後より効果的な政策ツールの開発のため、その内容、特にインセンティブ制度設計を改良し社会実装につなげたいと考えている。